トニー『サイコ』の影 その2

 さて、トニー自身は本当のところ、『サイコ』に出演したことをどう捕らえていたのだろうか。
 彼の演技者としてのキャリアを決定付け、演技的に素晴らしい達成となった役でありながら、その後の役者人生を歪めてしまう元凶となった曰く付きのノーマン・ベイツ役を。
 引きつづいてジャネット・リーの『サイコ・シャワー』からトニーの証言をみてみよう。
 パーキンス自身も、この不気味な役を演ずることにまったく不安がなかったわけではないらしい。そのことについて、ヒッチコックに悩みを打ち明けている。何年も後の回想で彼は言っている。「これが賭だと言うことにはヒッチコック氏も賛成してくれました。この映画がどれだけの成功になるかは彼もまだまったく予想していませんでしたが、いずれにせよやってみた方がいいと勧めてくれたのです」
 ところが、映画は爆発的なヒット作となった。ヒッチコックの(当時は)前代未聞の宣伝が当たったと言うこともあっただろう。彼は映画開始後20分を過ぎたら途中入場は許さない、とテレビコマーシャルの中で自ら出演して宣言した。映画館の興業主の反発を押さえて実行させたのだ。劇場から出てきた人にもストーリーは喋らないで下さい、と頼んだ。
 結果は現在のお金に換算して全世界で100億円を優に超える興業収入の大ヒットとなった。しかし、批評の方は必ずしも好評というわけではなかった。演技についての絶賛がある一方、ヒッチコックの作品の汚点とまでいう批評があった。
 しかし、最初の衝撃が過ぎた頃から批評の評価が上がり始める。そして、いまや映画の教科書に載る作品となった。
 ジャネットはアカデミーの助演女優賞にノミネートされた(が受賞できなかった)。一方のトニーはノミネートさえなかった。ノミネートはヒッチコックの最優秀監督賞、撮影賞(白黒)、美術・セット装飾部門(白黒)だけだった。その時ジャネットはヒッチコックから一本の電報を受け取っている。彼の電報は「君の仲間の俳優たちのことを恥ずかしく思う」だった(アカデミー賞のノミネートはそれぞれの部門ごとの組合---演技賞ならスクリーン・アクターズ・ギルド---のメンバーの投票で選ばれる。つまりヒッチコックはパーキンスをノミネートしなかったギルドの俳優たちの見識を非難していたのだ。そして監督自身も5度目のノミネートでまたしても賞を逃している)。
 しかし、ジャネットは『サイコ・シャワー』執筆の準備の途中でトニーの次のようなインタビューを発見して衝撃を受けることになる。映画が公開されて間もない1961年1月号の雑誌インタビューでトニーはこう語っている。
 「『サイコ』の成功でぼくは映画界に残る勇気が湧いた。それまで、ぼくは実のところ罪悪感さえ感じていた。たぶん映画はぼくには向いていないと思っていたんだ」
 そして、その記事の中でトニーは言っている。「ぼくはノミネートされるだろうし、ジャネットもきっとそうなると思う」
 ジャネットは、トニーがその後数年間活動の場をヨーロッパに移したことについて、偶然だったのか意図的だったのか、と疑問を呈している。ジャネットにも分からない。しかし、彼の失望が大きなものであったことだけは確かだろう(もっとも、彼のヨーロッパ時代は、実に実りあるものだったと言える。ハリウッドに帰ってこなかった方が良かったくらいだ、とぼくは思う。サガン原作、イングリット・バーグマン、イブ・モンタン共演の『さよならをもう一度』(カンヌの主演男優賞を受賞)。ギリシャでメルクーリと共演の『死んでもいい』。イタリアのソフィア・ローレン共演の『真夜中へ五里』(未見)。カフカ原作、オーソン・ウェルズ監督の『審判』に主演。フランスではブリジット・バルドーと『可愛い馬鹿娘』(未見)で共演した)。
 1960年代半ばにトニーはアメリカに戻ってきた。その時点で『サイコ』が最後の(洒落じゃないぜ)アメリカ映画だったトニーのことを、ハリウッドは『サイコ』俳優として改めて迎えた可能性があるとぼくは思う。その後トニーはタイプキャストに苦しみ始めることになる。ハリウッド中心主義(それは米国中心主義と言っても同じだろう)が、『サイコ』以降のトニーのヨーロッパでのキャリアを無視させ、トニーを『サイコ』の衝撃の中に塗り込めてしまった可能性がある。
 何年も後になって『サイコ2』の話が持ち上がる。トニーは出演を受けるが、結局『3』『4』とつづくことになる続編のすべてでプロデューサーを務めたヒルトン・グリーンはこう語る。
 「トニーとの仕事ではいつも、彼はストーリーのことをとても気にしていたし、話がノーマンの人物像に背かないようにと望んでいました。つまり彼はノーマンをどう描くかについて妥協しなかったのです。それはもちろん、我々みんなが知っているように、トニー・パーキンス以上にノーマンをよく知っている人間なんてありえないからです。それにトニー・パーキンス以上にノーマンを愛することができる人間も一人もいない。だから彼は、ノーマンの人物像が歪められたりしないことを確認してから、参加してくれたのです」
 ジャネットはグリーンに、『サイコ』がトニーの役者人生に与えた影響についても質問している。「僕たちは二、三度そのことを話したことがあります。僕の記憶では、彼はノーマンが自分のもっとも傑出した役であることは認めていました。あの役で自分は大スターとして認められるようになったと思っていたんです。ですが彼は、そのことで傷つきもしたと思います。他の役が演じられなくなったのだとね。彼は人気のある主演男優だし、とてもいい役者だった。彼の名はあの役で人々の心に永遠に残るのだろうけれど、でも他の役ができなくなる原因になった面もありますね」
 もうひとり、『サイコ』の脚本家ジョセフ・ステファノにもジャネットは聞いている。「私にははっきり言えません。ある意味では同感です。(中略)僕は『天使よ、故郷を見よ』の通し稽古を見たことがあったのです。大がかりな場面で、天使の像の代わりに舞台裏の衣装掛けが置いてありました。ただそれだけを相手に、トニーがそばに立ち、これが墓地の天使だと想像するわけです。そして問題の場面が始まったのですが、私の目はこの間中台詞を一言も言わない青年にずっと釘付けになってしまった。彼はジョー・ヴァン・クリーフやそのほかの連中から場面をさらってしまっている。それも一言もしゃべらないで。彼はただそこに立っていたその立ち方がすごかった。その時すぐにではなくて、彼が『サイコ』をやることになったと聞いてからのことですが、『あれこそがノーマン・ベイツだ』と私は自分に言い聞かせた。私の書いたノーマンは、まるごとあの時舞台に立っていたトニーに基づいているんです」
 ジャネットはトニーの家族にもインタビューをしている。トニーは1973年にベリーと結婚、オズグットとエルヴィスの二人の息子を得た。ベリーは『サイコ』の影響について極めてはっきりした意見を持っていた。
 「彼の選択できる範囲に決定的に影響しています。まるで『サイコ』以前には彼にはまったく別の人生があったようなものですわ。まるで別の将来が。彼はわたしにだけ打ち明けてくれたことはありますが、それでさえごくたまにだけでしたけれど。彼は苦々しいことを口にするタイプではないんです……どういうことかお分かりでしょう? 物事を否定的に見るのが好きな人ではなかったんです。いつも仕事ができることを感謝していました……自分の得たものに感謝して満足するタイプだったんです。
 それでも分かることはあります。怪物みたいな役だけはいつでも話がありました、彼が本当に演じるのを好んだような役柄ではなくてね。夫婦で映画を見に行くと、いつも『まああの役はあなたにぴったりじゃない!』と言わずにいられない。そうしょっちゅうは言わないように注意していましたが、とても欲求不満になります。(中略)彼は自分にふさわしいはずのことよりも相当に低いもので我慢していたのだと思いますわ。もし彼が自分の意見をもっと言っていれば、ずっと役の幅が広がっただろうとも思いますわ」
 長男のオズグットは、父親としてのトニーについて語っている。さらに、ジャネットも言うように、トニーが『サイコ』についてどう考えていたかの決定的な答えも持っていたのだ。彼は大学で映画学科に通い、授業で『サイコ』が何度も取り上げられるのを体験している。
 「以前はモンスター映画が作られていて、“恐怖”はロボットとか宇宙からとか、それこそ黒い沼地からの怪物とか言うように、何か人間世界の外部から来るものだった。恐怖は人間とは一切関係がなかった、ただ人間界の外側と関係があったのです。ですが、60年代に現れた恐怖を体験する存在は、中の恐怖、人間性の内側から出てくる恐怖だったのです。『サイコ』はノーマンの内面の苦しみについての映画です……彼は見た目が怪物なのではなく、内面が怪物なのです」
 ジャネット・リーは、この若者にすっかり感心する。ジャネットはトニーが映画産業について息子にどう語ったかを聞いてみた。
 「父はむしろ、ぼく自身が自分で学ぶべきだという感じでした。父はぼくを指導して、なんでも思いついたことをぼくに教え込んで、自分で自分の意見を考えられなくしてしまうようなことは避けたかったんだと思います。ぼくが映画学科に行くことを決心してからも、彼はぼく自身に任せた上で『自分で考えてやるんだ』と言ってくれました。
 この家は一度も映画についての家族になったことがありません。ぼくと父の関係も、弟と父の関係も、母と父との関係も、一秒だって映画についての関係にはなりませんでした。この家はぼくたち家族についての場所なんです。
 ぼくたちのライフスタイルや、こういう生活を享受していられることは、確かに『サイコ』と大いにかかわり合いのあることです……つまり、うちの生活のかなりの部分があの映画のおかげだと言うこと、それは確かです。でもだからって腰を下ろしてはそのことばかり話したりするようなことは決してありません。お分かりでしょう。あれは仕事なんです。歯医者だって家に帰ってから奥さんや子供にその日一日の仕事がどうだったかなんて話したりはしないでしょう、『いやあ、今日はすごい虫歯を診てね』とか」
 そして、すっかり彼のことを気に入ったジャネットに答えて、オズグットは父トニーの人生への『サイコ』の影響について、決定的な話をし始める。
 「一度父に聞いてみたことがあります。『1959年に戻って「サイコ」を引き受けるかどうか、もしこの役を取ったらあとの一生ずっとおなじような役ばかりやらされることになると分かっていたら、父さんはどうする?』

 父はしばらく考えていました。ぼくには、父がまるで丸一日ずっとこのことを考えていたようにも思えました。父はそれから戻ってきてこう言ったのです。『絶対に引き受けるよ!』
 ぼくはたぶん、これは父が自分のキャリア全体のことではなく、まずその役の本質のことを真剣に理解していたからだと思うんです。彼に関心があったのは、自分のキャリア全体をうまくやることよりも、ひとつの役を正しく演ずることだったのです。父は自分自身をたくさんの映画の上に薄く広げることよりも、一本の映画で強烈な衝撃を与えることを選ぶ人でしたし、実際にそうしたんです。
 そして、『サイコ』のあと彼を配役した人たちはほとんどが、彼がやったことの豊かさを見逃していたと思うんです。彼は本当に二重の演技を、それは奥深くやってのけていたんです。『サイコ』を初めて見る友達と一緒に見ると、最初の30分から40分の間は、誰もが彼に共感しているのです……他のなにものでもない、共感です。『サイコ』のあと父を陳腐な恐怖物の役柄にキャスティングした人たちは、彼の演技の深さを見ていなかったんです……父さんはああいう他の役柄をはるかに越える俳優でした。
 『サイコ』を見ると、あの哀れな男のことを誰も一瞬たりとも悪くは思えないんです。そして気がついたら最後に、『ああ、なんてこった。自分はずつとこの男の肩を持っていたじゃないか』ということになるんです。彼が逮捕されるときですら同じです。そして観客に人殺しを気の毒だと思うように仕向けることは……つまり、罪の意識を感じてしまうんですね、それまでずっと殺人者に親しみを感じていたわけだから……父があの映画でやったことのなかでも、一番素晴らしいことのひとつだと思います。そして『サイコ』を見るたびに、彼のことを怖がるよりも、彼の意識の中で起こっている恐怖を気の毒に思ってしまう。これには、本当に驚きます」(つづく


 クロード・シャブロル監督『異常な10日間』

 マルレーヌ・ジョベールと。(1971)

Saturn's Ring
Back