トニーと『サイコ』の影

 

 月並みかも知れないけれど、まずはぼくの『サイコ』体験から話を始めよう。
 それがいつのことだったか、正確には覚えていない。高校の1年か2年の頃だ。たまたま教育テレビでヒッチコックの『サイコ』をノーカットで放送した。名画劇場というような感じだろう。果たして教育上いいのかどうか、今となってみると甚だ疑わしいが、ぼくはひとりでコマーシャルもなしに、予備知識すらまったくなしに(期せずしてヒッチコックが初公開時に採った開映20分を過ぎたら入場を禁ずる、という前代未聞の措置と同じ状態だった)観てしまったことになる。
 アンソニー・パーキンス主演ということは知っていた。まだ未見だったがオードリー・ヘップバーンの熱烈なファンだったぼくは、オードリーが『緑の館』でトニーと競演している、という知識だけはあったのだ。
 ところが、見始めて『サイコ』の強烈なサスペンスに引き込まれていくことになる。そして例のマリオンのシャワーの惨殺シーンでは文字通り信じがたいショックを受けた。しかし、それは主人公(と思いこんでいた女性)が映画の1/4で殺されてしまうという映画構成上の意外さが大きなファクターだった。本当に戦慄したのはやはりあのラストシーンだ。これは実に深い恐怖をぼくに与えた。本当の「キチガイ」を見てしまった、という戦慄。しかも、そのキチガイに十分に感情移入して、女主人公が死んだ後は彼こそが主人公だと思って見ていた、その挙げ句のことだ。つまり、パーキンス演ずるノーマン・ベイツに感情移入して彼のつもりで見ていたぼくは、ラストで実は「あなた」が本当はキチガイだったのです。と明かされたようなものだったのだ。
 キチガイ、というものが世の中にいる、ということは知っていた。しかし、ヒッチコックは、ノーマン・ベイツを実に繊細に、まったく普通の好青年としてトニー・パーキンスに演じさせ、しかもそれを深層心理というねじれを使って映画を観るものの無意識に矛盾なくつないでしまった。あなたも狂っているかもしれない、というメッセージとして。そのトニーの演技があまりにも完璧だったことが致命的だった。ヒッチの演出も完璧。ジャネット・リーの演技もまた最高だった。悪夢を作り上げるのに最高の布陣をひいていたのだ。
 『サイコ』という映画は何だったのか。ノーマンというひとりの弱い人間、不幸な男の造形、マリオンという不幸な女の造形を通して、人間という生き物の精神の「狂い」を描いた映画だ。そして、その「狂い」はあなたにも無関係ではない。そう映画は語っている。
 そう。「気が狂う」ということほど恐ろしいことは、あまりないのではないか。僕たちは、「死」と同じく日常生活では自分には無関係なもの、として生きている。
 しかし、それらは決して無関係なわけではない。
 いずれも「私」が壊れてしまう究極の体験を名指すものだ。「死」は私の存在そのものを終わらせてしまうし、「狂気」は生きながら私の存在を壊してしまう。
 不倫中の恋人とのままならぬ運命を打開したい一心の出来心で大金を盗んでしまうマリオンの「狂い」。マリオンは育ちの良さが一目で分かるし、それが不幸な出来心であることは誰にでも分かる。ノーマンと話す内に自分の非を悟ってお金を返そうとしていたマリオンが殺される。その悲劇。しかも、その悲劇は決していわゆる悪人によって起こされたのではなかった。マリオンの「狂い」よりひとまわり深く救いのない「狂い」にねじ伏せられたノーマンによるものだった……。ノーマンという人間にも実際好意を抱かざるを得ない。時として異常な顔を見せるもののそれは気の弱さや優しさに隠されてしまう程度のものと我々は思う。しかし、ノーマンと言う人間はその「狂い」に私というものを完全に解体させられた人間だった。最後にはノーマンは自分以外の別のものになってしまう。「私」は消え、あるいは乗っ取られる。
 さて、ぼくはこの映画のショックを長い間うまく消化できなかった。いや、もしかすると、消化できる日は来ないのかも知れない。そして、この映画を作ったヒッチコックにも、ノーマンを演じたアンソニー・パーキンスにも、アンビバレンツな感情を抱かざるを得なかった。つまり、この映画以来トニー・パーキンスの映画を観るたびに彼に親近感を抱かざるを得なかったからだ。実際、日本人は彼に非常な親しみを持ったことは明らかだった。それは実際、彼が『サイコ』出演後も続いたのだ。『スクリーン』の人気投票に置いて、パーキンスはデビュー直後の1957年頃から約10年間ベストテンの常連だった。『サイコ』の公開は1960年だから、実にその後もパーキンスは立派に人気を保ったと言える。『ブラームスはお好き』ではカンヌ映画祭の主演男優賞を取ったが、これは『サイコ』の翌年の仕事だ。ここでも彼は繊細な青年を演じている。しかしここで狂うのはイングリット・バーグマン演ずる年上の女性への恋愛にであって、精神の瓦解ではない。ないにも拘わらず、ノーマンの演技の深さは、フィリップの造形にも影を落としているかもしれない(観客が無意識にも見てしまう!)。しかし、冷静に見て、ここでの彼は本当に魅力的に恋する青年を造形しているし、その感情を掘り下げて表現することに成功している。
我々は、『サイコ』におけるような狂気を「無関係」と思いたい気持ちと裏腹に、まったく無関係ではないことをも知っている。その恐怖に密かに耐えて生きている。それが大袈裟にではなく我々の実存ではないだろうか。ぼくは『サイコ』を見たくなかったし、実際長い間見ていない。ぼくは今でも『サイコ』が怖いのだ。それにも拘わらず、その恐怖に耐えて我々は自分の生活と人生を造形していく。
 その勇気や元気をも生まれながらに持っているのが我々人間だ。

 パーキンスは、繊細な青年の役をやる年齢を過ぎるにつれて、徐々に『サイコ』タイプの役が増えていくようになる。それは本人がそれをやりたがったからではなく、そのようなオファーばかりが増えていったことの結果だった。実際、残念なからノーマンのあまりに強烈な印象が彼の役者人生に深く長い影を落としたことは間違いない。観客もプロデューサーも青春の翳りが失われるにつれ、トニー・パーキンスという素晴らしい演技者を、えせ『サイコ』的なタイプキャストにと塗り込めてしまうようになっていった。これはトニーにとってはもちろん、我々にとっても誠に残念なことだった。彼はインテリジェントで真に深い演技者だったからだ。
そのパーキンス自身は、『サイコ』とノーマン・ベイツについてどう考えていたのだろうか。
 ジャネット・リーが書いた『サイコ・シャワー』という本がある。最近この本を読んだ。そこに共演者から見たパーキンスの姿が描かれている。
 トニーの親友のポール・ジャスミンによれば、この役をオファーされたパーキンスの反応はこうだった。「ぼくの記憶では、彼はただヒッチコックと仕事が出来るというので興奮していただけです。彼はヒッチコックの映画に出ることを自分にとって大きな挑戦だと思っていました。彼は本当にヒッチコックを愛していました。後になってからは良く冗談のタネにしていましたが、それは自分がいつも『サイコ』のことばかり言われるからでした。当時彼があの役を悪く言ったり、ためらったりしたことなんて一度もありません。」
 撮影中のパーキンスについての証言からいくつか。まず始めにジャネットの証言。
 「アンソニー・パーキンスと一緒に仕事をすることはきわめつけの冒険だった。彼は本当にエキサイティングで、霊感にあふれる俳優である。トニーはまだ撮影が始まらないうちから、素晴らしく奇妙なアイディアを次々と思いついてヒッチコックを心底喜ばせた。例えば映画のあいだじゅうノーマンはキャンディーを口に入れているべきだと考えついたのもトニーだ。これは極めて効果的で、見事に的を射ている。」「自分の役柄を準備しているときのアンソニー・パーキンスは実に深くまで掘り下げていたのだと私は思います。それから自分の表現を固めるのにも時間をかけていました。それはアンソニー・パーキンスが本物のプロだったからです」
同じく競演のマリオンの恋人を演じたジョン・ギャヴィンの証言。
 「ぼくはトニーがあなた(ジャネット)相手のときどうだったかは知りませんが、でも彼は誰が相手のときでも同じだったと思うのです。彼は熱心で、寛大な俳優でしたが、そのシーンが終わってしまうと、自分の楽屋に消えてしまうのです。それが無礼な態度だとか、お高くとまっているとか、そんなふうには思えませんでした。自分のやった仕事についてよく考えたいという欲求の現れに思えましたし、だからぼくもその気持ちを尊重しました。彼はいつもとてもいい人でしたが、顔を合わせるのはほとんど撮影現場に限られていました。それからあることがきっかけで、ぼくは心から彼を慕うようになりました。ある日彼がぼくの所にやってきて、彼から見てぼくがどれだけいいかと言ってくれたのです。その時ぼくは自意識過剰気味だったので、『君はとてもいいよ、思っていたよりもずっといい』と彼に言ってもらえたことの意味はとても大きかったんです。」緑の館つづく

 

 

 『緑の館』でオードリー・ヘップバーンと競演したときのスチールから。映画の評価は高くないが、これはぼくにとっては最高の演技者の組み合わせが成った映画だ。原作のハドスンの小説もとても良い。映画の失敗はよく言われるように、監督のメル・ファーラーの力不足だろう。原作のラストを改変したことが致命的な傷を作品に与えてしまった。甘すぎるのだ。それをロマンチックと解釈するような見識のなさは、作品にとって致命傷となった。パーキンスは撮影中からメルの演出に不満を持って、失敗を予期していたという。

Saturn's Ring
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