2005年11月に発行したエッセイ集『dozeu.net雑想ブック』のコンテンツを
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 《ブックエンド》
    夜が明けたら  
        まえがきに代えて


 僕は今、マックのディスプレイに向かってこの文章を打ち込んでいる。
 ちょうど真夜中を過ぎたところ。
 秋から冬へと季節が移りつつある。外はきっと冷え込んでいる。月は出ていないだろう。雨も降っているかもしれない。
 それでも、少し外に出てみたい。おそらくは人がいない、夜の住宅地の濡れた道を歩いてみたい。傘は持ちたくない。空気は湿っているだろう。
 それでも、ぼくはここでキーボードを叩いている。かたかたかた、カチッ‥‥。

 昨年の今ごろも、本を造っていた。
 そう。初めての自分の小説集を。
 『土星の環』と名付けた本。自分のお金で旧知の印刷屋さんと一緒に造った、三十代に書いた五つの中・短篇たちを収めた、プライベートなくせに、ちょっと気張った、小さな上製本。本を包むカバーにはPP加工をして補強したトレーシング・ペーパーを用い、カバーに載せた「土星の環」の題字の下には、環のついた土星の画像が背景の真っ暗な宇宙空間にぽつんと浮かんでいるのが透けて見える。
 何故、そんなことをしたのだろう?
 売れる見込みもない本を造るなんて。
 哀しい自己満足じゃないか。‥‥
 僕は、うまく応えることができない。
 そうかもしれない。
 そうかもしれない、が。‥‥
  家は静まりかえっている。iTunesから流れていた音楽がしばらく前から聞こえない。外はやはり雨が降っている。たぶん、小さな雨粒が世界中の屋根と道に降り注いでいるのだ。何もかもが、ぐっしょりと濡れて滴を垂らしている。外には出られない。もちろん、本当は出られるし、夜の外気を吸いたいのだけれど。
 雨は降り続けている。僕の思いとは関係なく。音楽をかけよう。紅茶を飲みたい。濃いミルクティー。
 Queen のフレディ・マーキュリーが、Seaside Rendezvous を歌い始めた。

 以前の職場を退職して六か月と少しが経った。
 僕は今、古本に囲まれて暮らしている。もっとも、未だ、古本を売って暮らしている、と言えるほど売れてはいない、悔しいけれど。まだ本の揃えが足りないし、きっと変なサイトなんだ。誰もが変なサイトだという。いいけれどさ。‥‥
 それでも、自分の古本サイトと楽天フリマに支店を持ち、格好だけはOnlineの古本屋だ。
 そう。僕の今の職業は、古本屋だった。
 今日も先ほどまで自分のサイトをいじっていた。今日は、山田正紀さんの星を開星した(註:うちでは、作家専用の棚を作ることを星を開く、という)。
 だから、とにかく僕は古本屋だ。
 半年前までの大学事務職員ではない。
 それは、少し不思議な感じを僕の体の中にまだ残している。
 内臓の隙間のどこかに、大学職員という名の不定形のカケラが残っている、そんな感じ。
 大学職員として、大学新聞を作ったり、受験生相手に説明をしたり、パンフレットを作ったりしたのは、今考えてみてもなかなか愉しかった。やさしい学生、可愛い学生が多かったし、仲良くしてくれた教員もいた。そして一緒に働いたたくさんの事務職員たち。困った人もたくさん。変な人もたくさん。そして、懐かしい人もたくさん。仕事で助けてもらったし、一緒に苦労もした。何よりも毎日まいにち一日の時間の大半を(良くも悪くも)顔を突き合わせて過ごした。それでも、いまから思うと、もっと一緒にやれることがあった気がする。僕はどうも、結局のところひとり気ままにやるのが好きで、あまり協調性はなかったかもしれない。
 
 何故、辞めるんだ、と聞かれても、うまく応えられなかった。
 確かに、好きな広報の仕事から離れたことが直接の理由だろう。でも、明らかにそれだけじゃないもの。いわゆるキャリアアップじゃないし(むしろダウンだ)、もっと自然現象に近いような感じかもしれない。
 蝉が、土から出て、殻をぬぐ時期が来たような感じだった、実に。
 土の中は温かくて、だから、ずっと居たい気持もあったのだけれど。
 僕はちょうど、土の中に居る時間を使い果たしていた。
 そうだなぁ。流れが変わったのは、一九九五年だったと思う。
 たぶん、一九九五年。
 ウインドウズ95が爆発的にヒットした年。一段と高度化した情報化の波が押し寄せ、組織のレベルから個人のレベルにまで浸透し始めた年。僕たちは、情報の海に浮かぶ不定形の生き物で、もう顔さえ海の上に出し続けることは困難になりつつあった。
 乾いたところがなくなり、体全体が常に塩辛い海水に浸かっている。
 乾いた島そのものが水没し、もう陸地そのものがなくなっていたのだ。世界は、同じ一つの海に覆われていた。
 それが、一九九五年以降に生じた世界だ、と思う。
 僕らは改めて、泳ぎ方を学ばねばならなかった。
 学ばない者、学べない者は溺れていった。多くの者が溺れたのだ。
 むろん、一方で急速に情報の海での泳ぎ方を身につけ、ヴァーチャルな潜水艇や快速船を作り上げ、島まで仮構してその上に都市を築こうという者も出てきている。その都市で生きて行くには自分の身体をもヴァーチャルにする必要があるにしても、だ。このような変化は、僕らに何をもたらすのだろうか。もう少し待たないと、それははっきりと見えてこない気がする。でも、「情報が一番大切だ」という考え方が以前にも増して大きな力を持つようになったことは間違いない。しかも、いかようにも加工可能なデジタル情報であることが求められた。僕らは既存の情報もすべて、デジタル情報に還元する方が良いし、すべきだと思い始めている。確かにこの方法は大きな威力を発揮するし、今後もますますその傾向は加速するだろう。
 これを「デジタル情報還元主義」と呼んでみようか。
 しかし、その結果、僕らは今回もまた大きな勘違いをし始めているのではないだろうか。
 もちろん、実際には、デジタル情報に還元することができるもの、その方が良いものがある一方で、デジタル情報に還元しないで良いもの、しない方が良いもの、できないものがある、という単純な話、当たり前のこと、であるはずなのだ。
 でもそれが、見えにくくなっているのではないだろうか。僕らは「遅れている」とか「取り残される」とか言われるのを怖れて、「デジタル情報還元主義」に呑み込まれようとしている。
 (これを、河合隼雄さんなどが書いておられる“なんでも科学的に解決できる、という勘違いがある”という話の一変奏と考えることができる。大雑把に言えば、科学は“対象”と“私”の関係を切断し、私と無関係なものとして対象を記述することにより発達した方法で、大変有効で、何でも科学的に説明できる、と思われるほどに発達してきたけれど、例えば、飛行機事故で“私の”肉親が死んだ場合に、「何故私の両親が亡くなったのだろう」という問いに、「瞬間の衝撃が十二Gに達したと想定される」とか「出血多量です」と科学的には答えられるだろうが、それは“私”が知りたいことではない。何故“私の”両親が死なねばならなかったのか、という問いに科学は答えることができない。そこには“私”と“対象”とのほかに代え難い“関係”ということが入ってくるのだから。それはデジタル化がふさわしいことではないし、無理にしようとすれば、おそらくいろいろと問題が生じる)
 僕は今、この情報の海の時代を否定的に描写しただろうか?
 そうしたくはない。
 そうせずにすめばいい、と思っている。
 だが、溺れる者がいることを忘れたわけではない。
 電脳の時代は、僕にヴァーチャルな偏頭痛を起こさせる。時に/しばしば。

 今年の四月、父を亡くした。
 それが哀しいのか、哀しくないのか、時々僕には分からなくなる。
 生前の父は、僕の目から見て、かなり困った人間だった。
 一番いけなかったのは、母と母の人生を傷つけたことだと思う。そして今思うと、確かに父は、そのことで父と父自身の人生をも大きく傷つけていた。互いのために、いくらなんでももう少しまともな生き方ができたはずだと今でも思うけれど、父にはコントロールできなかったし、母にもできなかった。
 その二人の子である僕も、二人の抱えていた問題の多くを引き継いでいることに気がつかざるを得なかったし、気がついてはいても、その問題を解消できはしなかった。
 僕の手には余る、と了解せざるを得なくなったとき、僕はある決心をした。
 少なくとも僕は、父のようにはなるまい、こんなことは、僕の代で断ち切ろう、と。
 僕が得たのは、従って誠に残念ながら、ネガティブなモデルだった。
 大人になる、とはどういうことなのか。
 客観的、とはどういうことなのか。
 正直、とはどういうことか。
 僕はポジティブな何かを探していたのだ。
 その一方で、自己中心の大切さ、について気づかされた。
 依怙贔屓を大切にしたい、と思った。
 自分の思いを形にすること、創り出すこと、我が儘であることを肯定したいと思った。
 僕は奇妙な具合にねじれていたのかもしれない。
 ある種の分裂があったのかもしれない。
 僕は極めてゆっくりとしか歩み出せなかった。
 十字路でずっと佇んでいたのだと思う。
 それでも、時はゆっくりと、しかし確実に、僕から取り分を取っていった。

 いつの間にか雨も止んだようだ。それともまだ霧のように細かい雨が降っているだろうか? 今は、コンピュータのファンが回る僅かな音と、キーボードを叩く、かたかた、コツ! かたかたかた‥‥という音が、世界で一番大きな音だ。
 午前四時。世界は寝静まっている。
 時だけは、今も休まずにカウントを続けている。
 朝はまだ来ない。
 朝は来るのだろうか?
 もちろん。
 たぶん。‥‥

 父のようになるまい、という決心は、ある意味で、結婚しても我が家のような家庭は築かないぞ、という決心でもあったのだけれど、それは実際、自分が思ってもいなかったような形で果たされつつある。
 つまり、僕は今日に至るまで、そもそも家庭を築けなかったのだ。
 従ってごく単純に言うならば、父のようになるまい、というより、父にはなれない、と言うべきだったのだ‥‥!
 やれやれ。
 マイッタ。
 これは誤算だった。自業自得ではあるけれど。
 これでは目的成就とは言いかねる。
 夜の底は深い。
 あの頃時間があれば、僕は休みの日に、別居した父と母を、交互に訪ねては何をするでもなく話し相手をしたり、ただ一緒にいたりした。そんな日々が何年も続いた。ある友人のアドバイスで、僕はそれを自分の「仕事」だと思うようになった。すると気が楽になった。報酬はない。でも、あるとも言える。二人を見ていると、いろいろ考えざるを得なかった。漠然とながら、自分の老後についても。
 父は亡くなる一年前からほぼ寝たきりになったから、僕はその少し前に父がいる実家---この家---に帰って父と一緒に暮らすことにした。
 
 父が、気がつくと変わっていた。
 あの困った父が、いつの間にかいつでもニコニコとしている父になっていた。亡くなる半年前からは、たぶんどこかに軽い脳梗塞があったからだろう、言葉が出なくなっていた。それでも頭はしっかりしていて、こちらが言うことはよくわかっていた様子だった。体は右半身が痺れていて、ますます動かなくなっていたし、きっと辛かったはずだが、文句も言わず(言えなかったけれど)、テレビでサッカーの試合を観戦して、全体としては機嫌良く過ごしていた。肺炎を煩ってからは、特に体調に気をつけなければならず、何度か救急車で運ばれて入院もしたけれど、病院の看護婦さんには評判がよかった。長年来てくれていたヘルパーさんたちにも大変親しまれていた。外面だけはいいんだから、などと思っていたけれど、どうもそれでは説明できない。
 僕に対しても笑顔の父だった。
 ある意味で、父も戦っていたのかもしれない、と今は思う。僕の目から見る限り、それは随分と見当違いで、何も生み出しはしなかったし、壊してはいけないものを、いくつも壊してしまったのではあるけれど。
 でも、それももう終わっていた。
 そして父は、齢八十六にして変わったのだ。確かに。
 なんてことだ!
 父は四度目の入院をした。最後は体力が続かなかった。
 どこかで遠く、救急車のサイレンの音が聴こえる。
 窓の外はまだ暗く、朝の気配もない。
 明けない夜はない、と言うけれど、小松左京さんの短篇では、地球規模の異変が起きて、決して明けない長い夜が始まる中、恐怖を押し殺しながら、それでもどうしても朝が来るのを待ちわびてしまう、という男の話があったっけ(大変な傑作だった)。
 だから諸君、軽はずみに地球の自転を止めたりしてはいけないよ、という教訓が導かれる(!?)、というのはむろんウソだけれど、小松SF級の異変が起きればともかく、明けない夜はない、と信じて僕も待ち続けよう。
 きっと夜は明ける。
 そして、夜が明けたら‥‥

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2007-07-01
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