2005年11月に発行したエッセイ集『dozeu.net雑想ブック』のコンテンツを
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  時をかける思春期のドラマ
      ----『時をかける少女』SF序説


 こんなに素敵なカーテン・コールを伴った映画を、ぼくは知らない。
 十年後に、お互いの記憶をなくした和子(原田知世)と一夫(高柳良一)が再会するラスト・シーン。両手に山の書物を抱えて、白衣の和子が大学の廊下を遠ざかっていく。
 フェード・アウト。
 暗くなった画面に、松任谷由美が作ったテーマ曲が流れ出す。
 そして再び画面が明るくなると、そこはまたあの実験室だ。芳山和子が床に倒れている。
 終わったはずの物語が、また始まる、とでもいうような一瞬の錯覚。考えようによっては、今度は物語の中の和子ではなく、映画を観ていた我々、観客の方が、今一度過去に戻ってしまうのだ……。
 だが、それは一瞬のこと。
 和子=知世は、むくっと起きあがり、主題歌を歌い出す(!)。

   ♪あなた 私のもとから 突然消えたりしないでね〜  

 大林演出に一杯食った我々は、その嬉々としたお遊びを、軽いめまいから醒めるようにして受け入れる。そして、館内は笑いの渦だ。その半分は、あまりの馬鹿バカしさゆえに、そしてもう半分は……これは少し説明が難しい。
 スクリーンの上では、放課後の実験室から和子の部屋に、体育館に、校庭に、教室に、あるいは弓道部の練習時間に、そしてラベンダーの咲く温室にと、次々と場所を移し、時をかけて和子が……いや、原田知世がテーマ曲を歌い継ぐ。
 我々はそこに、物語という黄金の糸で寄り合わされていたそれぞれの場面が、最後にラクラクと解き放たれるのを見る。
 時と場所から解き放たれて歌う少女は、最早芳山和子ではなく、原田知世というフレッシュな魅力に輝く新しい映画スターに他ならない。
 歌はいつしか、出演者総出演の祝祭となり、拍手に包まれ、最後の最後でチラリと冒頭のスキー場、和子と一夫の出会いのシーンが挟まれ、徐々に消えゆくテーマ曲の中で、坂をかけおりてきた原田知世の、きらめく笑顔を映して、映画は終わる……。
 馬鹿バカしさのあまり吹き出したはずの笑いが、あたたかな笑顔となり、映画館を出ようと席を立ちはじめた人々の間に広がっている。何故、このようなことが起こったのだろうか。これを解き明かすことが、この小論の一つのテーマでもあるはずだ。

 ところで、筒井康隆の原作は、氏の従来の作風とは似てもにつかぬ正統的な思春期SF(?)である(映画のパンフレット裏の角川文庫版の筒井作品の広告を見ながら、ぼくの友人は、『時をかける少女』で初めて知った奴は、他のを読んだらぶったまげるぞ、とつぶやいた)。氏としては、学習雑誌上に発表という制約の中でいかに自己の資質と折り合いをつけるか、とかなり苦労された作品と漏れ聞く。
 だが、この場合は、制約があることでかえってSFの原型的な構造が単純な形で現れており、映画化にあたって、それが幸いしたケースと言えるのではないか。
 実はぼくは、SFを『青年期の表現形態』だと考えている。青年期を生きる人間を描く(例えば、いわゆる青春小説)という意味からではなく、SFがいわば『青年期の持つ特質を構造化した表現形態』として発展してきたジャンルだから、という意味で。
 そして、仮にそれを認めるとすれば、SFの主要なテーマの一つとして、青年期のアイデンティティを巡る諸問題が浮かび上がってくるはずだ。
 自分とは何か。どこから来たのか。そしてどこへ行くのか。
 SFである限り、どこかにこの問いを隠し持っている。というより、アイデンティティをめぐる様々な「混乱」それ自体がSFなのではないか。

 さて、某「シティ・ロード」誌の見どころ紹介では、「SFファンタジーとして傑作であるのは言うまでもないけれど、原田知世演じるヒロインの“大人になっていく途中で、心と身体が揺れ動く”ひとつの夢として解釈できるように作られている点も巧妙で(セリフとして随所にちりばめられている)、つまり誰にでもある少年少女期から思春期にかけての密やかなドラマでもあるのでは。」と、的確に指摘されている。
 確かに、『時をかける少女』は思春期のドラマだ。舞台は、いかにも日本的な美しさで映像化された地方都市(広島の尾道、竹原)とその高校だ。主人公として登場するのは、思春期に特有のある種の緊張感をうちに秘めた清明な少女和子と、その少女に恋する気持ちがありながら今ひとつうまくそれを表現できずに「仲の良い同じクラスの男の子」にとどまってしまう吾朗と、幼なじみであり(もちろん、本当はそれは吾朗の方なのだが)、草花が好きで「いつもどこにいるのか分からない」ようなところがある優しい少年一夫である。
 大林監督は、この三人の描き方をきっちり計算して撮っている。和子を演じた原田知世は文句なくチャーミングだし、役柄そのままのようだった(急にだらしのない話になるが、ぼくなんか映画館を出たときにはほぼ完全にファンになっていて、部屋にポスターを貼り、ヘッドホンでサントラを聴いては感涙にむせぶ、ということになってしまった)。吾朗の尾美としのりも良い。確かに監督自身が言うように、「彼がいわば現実の少年、日常の中の少年をやっているわけで、彼にリアリティがないと、この話が全部、絵空事になる」わけで、その重要な役柄をうまく演じていると思う。そして(実は未来人であるところの)一夫を演った高柳良一。彼の「演技」と彼の「演出」を成功させた大林監督は、この点でもっと評価されてよい。なぜなら、吾朗の存在にリアリティがあればあるほど、「未来人」であり、「理想の恋人」である一夫は、ヘタをするととんでもなく浮き上がった馬鹿げた存在になりかねないし、この二人の男の子の対比が崩れては、作品の悲劇としての構成も同時に崩壊するからだ。
 つまり、もう一度大林監督自身の言葉を引用すると、「一方の高柳君の未来人も演じるには難しいんですよ。(中略)彼には、突っ立っていろ、セリフは棒読みでいい、と。しかも、ヴォイス・トレーナーをつけてこの役に立ち向かわせて、味のある棒読みをやらせたわけです。」ということになる。
 一般に、現実感を巧妙に演出する監督は数多くいるが、未来人というような完全に虚構の存在を、何の策もなく投げ出してしまわずに、明確な意図を持ち演出できる監督は少ない。
 このようにして「思春期のドラマ」は形作られた。「結果的に高柳君がうまくやってくれたので尾美君との対照が出て、この映画のテーマである、現実の愛と理想の愛との間で揺れ動く少女の心が浮き彫りにされた」(大林監督)わけだ。確かに、『時をかける少女』は思春期のドラマなのだ。つまり、思春期のドラマを「描いた」映画でもある、ということだ。
 そして同時にSFでもある。
 と言うよりも、SFだからこそ『時をかける少女』は、並のいわゆる「青春映画」の類の描くことの出来ぬ 思春期の内的真実(!)に到達し得たのだと思う。

 ぼくが、ここで強調しておきたいのは、SFであるところの作品が、思春期のドラマとしても解釈できるように作られていますよ、と言うようなことではなくて(そのこと自体は間違いではないが)、そこには単なる「解釈」以上の深い内的関連がある、ということなのだ。その内的関連とは、例えばいわゆる「青春映画」(少年映画とか、広く思春期を描いたドラマも含む)を、青春を「描いた」映画だとするならば、「SF映画」であると言うことは、描かれる対象がではなく、その表現の方法が優れて「青春」であり、『青春の持つ構造』自体を表現として自立させた、といい得るような方法で形作られているということ、なのである。
 したがって、『時をかける少女』という映画は、「現実の愛と理想の愛との間で揺れ動く少女の思春期のドラマ」を、SFというそれ自体思春期的な方法---ぼくの言い方でいえば、青年期の持つ特質を構造化した表現形態---で描いた作品である、と言うことになる。
 それでは、この映画の中で、「現実の愛と理想の愛との間で揺れ動く少女の思春期のドラマ」は、いかに表現されているのか。そして、そこに見るSFであることとは、具体的にはどういうことであるのか。それが何故、『青春の構造化』と言い得るのか。
 実験室の怪しい物音。割れたフラスコ。ラベンダーの香り。
 ここからドラマは始まる。単純だが強力に、SFは仕掛けられ、物語の中に埋め込まれた。
 そして、和子の「時」が静かに狂い始める。
 気づかぬ間に、カップに紅茶が入っている。未だ放っていないはずの弓矢が、弦を離れて的に吸い込まれていく。地震の翌日崩れ落ちたはずのお堂の屋根瓦が、元のままだ……。
 そして、和子は気づかされる。
 ---きのうやった問題だわ……。夕べ復習したばかりよ。
 昨日が、もう一度繰り返されている。
 それとも、和子にだけ、「今日」という日が一日早く来てしまったのだというべきだろうか?
 和子には訳が分からない。何度も繰り返される悪夢にも似て。
 しかし、この「悪夢」は、実際に地震や火事を予知する。ただの夢ではなく、現実の「出来事」だ。
 そして、時が狂い出せば、人は自分が自分であることの確証を失う。きのう体育の授業に出席した私が、今日、同じ体育の時間が繰り返されるのを眺めながら休んでいる。きのうは今日なのか?
 きのう、体育でバスケットボールをしていた私はどこへ行ったのか?
 今日の私さえ、明日の私によって消されてしまうのではないか?
 私は一体どこに、いつ実在しているのか?
 私とは何か。
 悪夢だ。

 その時、和子には、幼なじみの一夫がいた。今は、彼だけが頼りだ。不安な心を打ち明ける。
 ---変な女の子って思わないでね。……
 自分は変なのではないか。どこか狂っているのではないか。私は一体どうなっちゃったんだろう。……
 思春期の頃、誰もが一度は胸の奥でつぶやいたはずの言葉ではなかろうか。
 アイデンティティの確立と言っても、自立することと言っても、大人に成長することと言っても(とりあえず)いいが、これこそが、思春期の、そして青年期にかけての中心的な課題であり、そこで迷い、悩み、不安に揺れ動くのも誤魔化しようのない青春の姿である。そして実は、それこそが『SF』の中心的課題でもある、と言ったら、奇異に聞こえるだろうか?
 狂いだした時---それは、SFであることにおいて表現された「青春」そのものに他ならない。

 だからこそ、“狂いだした時=思春期の不安”に、微妙に揺れ動く少女和子が、まるで海に浮かぶ遭難者のように沈みかけるのを唯ひとり支える一夫という少年自身に、実は最もドラマティックに『SF』は仕掛けられている。
 ---わかってくれる人がいるだけで、大丈夫。……
 ところが、その幼なじみの、唯一の理解者であり、明日の恋人でさえあるはずの少年深町一夫が、幼なじみではなく、和子は自分の記憶が何かの間違い---にせもの---でしかないことに、気づいてしまう。“日常=自分”が音を立てて崩れていく。
 ---深町君!?
 そして、少女は走り出す。
 時を、かける。

 和子が時をかける。その旅は、深町一夫を探す旅であり、また自分を探す旅でもある。
 ---あなたは、一体誰なの?
 それは結局、自分は誰なのか、と問うことに等しい。
 和子は一夫を見つける。さらに一夫を説き伏せて、本当の自分、幼い頃の記憶を取り戻す旅に出る。最後に、すべてが始まる前の土曜日の実験室へたどり着く。
 ---わたし、いやよ。普通じゃないのって……、普通の女の子でいたい、普通の女の子で、深町君とこうしていたい---のだから。
 実験室での、和子と一夫の再会は、感動的だ。和子は、あれほど自分を悩ませた、不安の原因をついに知らされる。一夫は、秘密を打ち明ける。そしてそこで、一夫であり、実は未来人である少年が語るのは、人間は、時を思うままにすることはできない、ということだ。
 ルールを破ってまで、和子を悪夢の中に巻き込んだ責任をとろうとする一夫。その彼は、彼自身のそれを含め、関わりのあったすべての人々の記憶を消し、自らは愛する少女と別れ、未来に還っていく。
 和子は、恐ろしいまでの不安の原因が一夫にあり、小さい頃の大切な思い出さえにせものに過ぎなったことを知ってなお、どこまでも、文字通りすべてを捨てて(時を越えてまで)ついて行こうとする。
 SF作品が倫理的であることの典型的な現われが、この深町青年(と呼びたくなる、この瞬間に)と和子の関係のごとくに優れて青年期的であることは不思議ではない。ここに、『青年期の文学としてのSF』の“核”が、おそらくは、あるのだから。

 二人には、分かれる以外に可能性がない。ただ、いつの日か、記憶を失い、相手を見分けることすら出来ないとしても、もう一度出会うことがある。出会えるに違いない。今はそう、信じて……。
 ここには確かに、“青春”という時がある。おそらく、この二人にとっても、二度とは訪れぬ ような、青春と言う時が二人を支配している。“狂いだした時”の怖さと不安。“越えられぬ 時”の苦しみと絶望。そしてなおも“新たな時”を求める期待と喜び。僕らは気づく。
 SFとは、青春の揺れ動く心に他ならない、ということに。

 原田知世は、狂い出し、越えられぬ時を描いた悲劇としての『時をかける少女』を見事に演じた。しかし、だからこそ、カーテンコールでまさに時をかけて歌う知世が、越えられぬ はずの時を越えた時、知世というそれ自身若い、新たな少女スターとしての“青春”をも、同時に、爽やかに駆け抜けたのである。
 この映画が、最後にメッセージするのは、その青春の、「思春期の秘やかなドラマ」を、その恐怖を、不安を、苦しみを、それと闘い、救い、希望へと人を導くのは、やはり人の愛だ、ということである。
 ぼくも、そうであってほしいものだと思っている。
  (一九八三年九月二十二日午後七時 オリジナル原稿執筆)

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2007-07-01
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