2005年11月に発行したエッセイ集『dozeu.net雑想ブック』のコンテンツを
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   栞3
    快活なウソツキになる方法


 さて、ふと改めて考えてみると、僕が大好きな人たちは、嘘をつくことの大切さ(!)を力説しておられる。例えば、庄司薫さんや河合隼雄さんの場合は、こんな具合だ。
 「いつの頃からか、ぼくは、自分がまじめに『ほんとうのこと』を書こうとしていたりするのに気づくと、そんな自分をおおいに警戒することにしてきた。何故なら、ぼくは嘘をつくのが大好きなのだ。
 しかも、今のところ、そこには悪意といった堂々たる意図があるわけではない。正確に言うなら、まことに残念ながら、悪意という魅力的な意図のための方法として嘘をつく、という境地にもいまだ至らぬまま、このぼくは、ただ要するにあることないこと(そしてもちろん、時にないことないこと)を書くのが好きなのだ。
(中略)ぼくは、大食漢のバクよろしく、大小とりまぜた夢の数々を抱えこんでいるけれど、この悪意に関する夢想はなかでも大きいやつだろう。何故なら、悪意を飼い慣らすことは、おそらくあらゆる『自由』のための必須条件にちがいないのだから。ぼくがこの『鍛錬』に成功した暁には、ぼくはたとえば、『庄司薫氏にだまされてはいけない』といった颯爽たるタイトルの序文をまったく悪意から自由に書き、そしてあることないことはもちろん、自分について『ほんとうのこと』を快活に語ることさえできるようになるかもしれない。」(庄司薫著『狼なんかこわくない』序文より)
 河合さんの場合は『ウソツキクラブ短信』なる、それこそ「あることないこと」「ないことないこと」が満載の著書までお持ちだ。
 そこで、いつ頃からか、ぼくも上手にウソをつけるようになりたいものだ、と考えてきたが、『ウソ力』の向上はなかなかに難しい課題であって、遺憾ながらはかばかしい進捗は得られずに現在に至っているのだが、取りあえず採用した戦法として、以下の方法をご紹介したい。木吾出洋子と所英明の共同考案による「ウソツキ考学の三原則」である。

第一条、ウソツキは、真摯に、かつ用意周到にウソをつき、ダマしたい相手を完全にダマさなければならない。ただし、ダマした直後にウソであることを必ずバラさなければならない。

第二条、ウソツキは、ダマしたくない相手に相対したときには、初めからどう考えてもウソとしか思えぬような明白なウソをつき、相手をダマすことに完全に失敗しなくてはならない。ただし、あまりに見え透いたウソなので、しまいにホントかと思えてきた、と言われる危険を甘受しなければならない。

第三条、ウソツキは、一条、二条のいずれにも当てはまらぬがダマさざるを得ない相手に相対した場合、相手を完全にダマしつつ可能な限り自らの身を守らねばならない。例えば、タイマー付のウソを仕掛け、一定期間後必ずバレるようにウソを設定後、現場からスタコラ逃げだす等の方法をとること。

  (「ウソツキ考学ハンドブック」 二〇〇五年版八〇〇頁参照)

 つまり、ここではウソは必ずバラす前提でつくことになっているんだなぁ(残念ながら)。まぁ、庄司さん言うところの「悪意」にはほど遠いが、この三原則を使いこなせれば、あなたも立派なウソツキですぞ。
 え? 何故せっかくのウソをバラすんだって? それはあなた、バラさなかったら(バレなかったら)、ホントになっちゃうじゃありませんか?!
            (二〇〇五年十月二四日)


 「大人」としての必要/十分条件

 「大人」になるとは、どういうことか。
 これ、案外難問だと思いませんか? 人間は誰しも、赤ん坊として生まれてきて、初めから大人だった人はいない。これは誰でも知っています。つまり、どんなに「大人」に見える人でも、始めは子どもだった。と、言うことは、ある時に子どもが「大人」になったに違いない。
 しかし、子どもは成長すると自動的に「大人」になるのか。
 うーむ。
 それがどうも、違うらしいんですねぇ。それで話がややこしくなる。
 とりあえず、「大人」にならなかった場合は、どうなるのか。
 先にここを押さえておくと、つまり、体の大きな子ども、になるんじゃないかと思われますね。所謂、「まったく! 体ばっかり大きくなったけれど、○○(ここにはあなたの名前を入れてください)と来たら、頭の中は、からっきしの子どもなんだから!」というやつですね。あなたも昔は、よく言われませんでしたか? え、今でも言われてる?
 ‥‥つまり、なんですね、ははは(と、弱々しく笑う)、「大人」とは、生物学的な定義はいざ知らず、体の成長と成熟に伴い、壮年期に必ずなるもの、とは限らない、ということですね。心の成長が伴わないと、「大人」とは呼ばない。
 ‥‥。
 あ、当たり前か。
 そうですよね。肝心なのは、では、どんな心の成長が伴えば、「大人」になるのか。これです。
 その答えを求めて、わたくしは、古今東西のありとあらゆる文献を調査致しました(ウソウソ)。その結果、ついに分かったのであります。
 しかし、その前にまず、青年期とは何か、から語らねばなりません。つまり‥‥
 べ、別にもったいをつけてる訳じゃありません。‥‥ち、違うってば!
 ‥‥。
 じゃ、じゃ、いいですよ。大幅に端折ってしまいますけれど、つまり、「大人」とは、その人が暮らしている「社会」との相関で定義されるんですね。簡単に言うと、その人が暮らす「社会」が要請する規範を内面化した人が「大人」、未だしていない人は「子ども」です。これを、もう少し分かりやすく言い直してみます。

 「大人」とは、必要とされる(公的な)目標のために、自分が必要と認める“不快”に耐えて、その(公的な)目標を達成すべく努める人のことである。

 ここで、カッコ書きの「公的な」という言葉は、入れなくても良いかもしれません。ただ、飽くまでその人が所属する「社会」との相関で決まる、と言う点から、程度の差はあれ、「公的な」というニュアンスは入ってきます。全く「私的な」目標を生きる基準にするような人の場合は、「大人」と直接関係がない。
 また、子どもとは、ここに言う「目標のために、自分が必要と認める“不快”に耐え」られない人のことだったんですね。

 僕はこの定義に一応満足しました。ですがそのうちに、少しずつ、物足りない気がしてきた。何かが足りない。ぶっちゃけて言うと、耐えてるだけじゃ、しようがないんじゃないか。「大人」とは何か、と言うときの、ミニマムな必要最低条件にはなっているかもしれないけれど、それだけなんじゃないか、と言う感じ。
 マクシマム、というか、「大人」としての必要十分な条件って、何だろう? そう思ったのです。それを見つけてやるぞ!

 さあて、それから幾星霜。
 どうなったと思います?
 実は、僕は、その答えをまだ見つけていないのです。
             (二〇〇五年十月二四日)

2007.7.10付記)最近、加藤典洋さんが「ウェブちくま」上で行っている「21世紀を生きるために必要な考え方」という何でも相談サイトに、「大人としての十分条件」について質問をして、ご回答いただきました。その後、本にまとまっています。是非読んでみて下さいね。


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2007-07-01
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