2005年11月に発行したエッセイ集『dozeu.net雑想ブック』のコンテンツを
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   夏の小説
        ―おじ酸化/還元・序説―


前略 久しぶりに手紙など書こうとしている自分が不思議だな。たぶん、書き終えることが出来たら投函もすると思う。で、君はいま読んでいる、というわけです。よね?
 さて、先日大森西図書館で北村薫という作家の『夜の蝉』というミステリを借りました。僕は普段ミステリなどとんと読まぬ人間です。(最近やたら多い様子の)人殺しが主題で、迷探偵の迷推理の結果、この犯罪にはどんなに汚い動機があるかが分かった、なんて話をわざわざどうして読まなきゃいかんのだ(答え:むろん読まなくていい)、と言うのが一番簡単に思い浮かぶ理由です。それに加えて、僕は元々SFで育った人間で、『スター・ウォーズ」以前の、つまりSFが一般に市民権を得る以前の、SFなんか子供だましだ、それどころか、SFなんぞ読んで喜んでいられるのは、空想癖のある少しおめでたい連中だろうという類の露骨な軽蔑の眼差しを、幸か不幸かよく知って(覚えて)いるので、ある時期SFの擁護とその理論化を我が使命と決め込んだことがあったのです。その結果、近接領域とも見なされていた推理小説に対して、連帯感を伴う親近感と共に、それ故の差別化の意志を伴う偏見をも育ててしまった可能性がある。つまり、一方にある種の権威が有り、共にその権威体系から差別される関係にある者同士の差別化が、悲しいことに一番激烈になる、といった一般に良くある要素もなくはなかった、と思うわけだね。しかも、推理小説や探偵小説(が違うものかどうかもよく知らないが)がそのパズル性からか知的と見なされうるのに対し、奇想天外なことばかりが書かれているSFはアホ扱いだった(まぁ、相当にちょっとひがみすぎかも知れないけれど、それは当時の、つまりいまからざっと二十年前の(!)SFファンにある程度共通する心理だったのではあるまいか、と今でも思っている)。
 もっとも、その後幸か不幸か我々にとって小憎らしい権威だったいわゆる純文学は、権威でもなんでもなくなってしまい、八〇年代は純文学からのSFへの接近と筒井を筆頭とするSFから純文学への殴り込み(?)がクロスオーバーするといった事態も生まれる。その結果かどうかはわからないけれど、ジャンルとしての日本SFは八〇年代初頭から徐々に総体としては失速し始める。ちょうど反抗する相手としての大人を見失って手なづけられてしまった若者のように。それはいわば大ざっぱに言うならば、SFが精神であることをやめて、手段化・方法化される道を辿ったことを意味する。それはSFにとって明らかな危機であり、その状況はいまだ続いている。
 ところで、そんなSFの盛衰を横目にいわゆるミステリがいまやブームであるらしい。むろん、権威という共通の敵(?)を失った今は、強い連帯感もないかも知れないが、反発もない。強いて言えば、独立の遅れた第三世界の若い国家が曲がりなりにも国家としての体裁を整え、国際社会でも相応の地位を確立した、そのかつての盟友への友情は存在する。そして、だからこそ、いま、かつて僕が(というより、もちろん当時のSF作家や愛好者が)、SF擁護の立場から、推理小説全般への差異(別)化を計った理屈が今でも理屈としてちゃんと通用するものかどうかというのは、興味ある問題と言えるかも知れない。その一番肝心な論点は、僕の考えでは以下の点にある。
 推理小説が、基本的に作者の設定した謎からスタートしてその解決へ向かい、その解決が小説としての帰結に重なること。つまり、その謎は解決されるものとして設定されており、解決こそが目的化され、ルール化され、しばしば解決の論理的鮮やかさ、その快感、余りのでない自己完結性こそが優れた推理小説の基準となっている点にこそ一番の違いが、そして、はっきり言えば推理小説の限界がある、というとらえ方。SFは対照的に、登場する謎はしばしば人知を越えており、解決されないか、あるいは一応の解釈にたどり着いた後も、謎は更に大きく膨らみ我々の前に立ちふさがり、謎を追いかけている内に我々がとんでもない場所に立っていることに気が付いて唖然とする。つまり、論理的に導かれた場合でも解決には至らない。解決がそのまま目的となるとは限らない。いや、むしろ常識的で割り切れたような解決を積極的に裏切ってさらに大きな謎を提出して終わることをよしとする傾向さえある。一つ例を上げよう。同じ謎の提出から解決へのプロセスを辿るにしても、推理小説が、密室殺人という可能な限り限定された状況での論理的な完全な解を求めるサブジャンルを作り上げる傾向を持つのに対し、最良のSF作家の一人A・C・クラークの有名な作品「2001年宇宙の旅」では人類には理解不可能な物体(モノリス)の発見に始まり、謎の追求は人類を木星に連れて行き、スターゲイトという超時空の回廊を旅してスターチャイルドというさらに圧倒的な謎との出会いに人間を導いて物語を終えるのである。
 もちろん、例外は幾らでもある。まったく立場を逆にした作品の例を、ミステリとSFから挙げることだって可能だろう。ミステリとSFがすべてこのような構造を持っているなどと極論するつもりもない。SFの九〇%はくずである。どんなものでも、その九〇%はくずなのだ(これを「スタージョンの法則」という)。だから、諸君は一〇%を見分ける眼力を養うことこそ大切なのだ。といったSF作家に僕も心から同意する。どちらを好むかと言うのもまさに個人の好みの問題だ。ただ、もうひとつ言っておきたいことがある。それが、今日の論点の(ミステリ作家の)北村薫につながる。そして、今や僕は北村さんが大好きである。

 知っている人は知っているが、知らない人は知らない(当り前だ)僕のSF論は「青年期文学論」という。ごくおおざっぱにそのプログラムを述べると、個体発生は系統発生を繰り返す、じゃないけれど、個人の青年期に相当する心理的構造は、人類史においても見いだすことが出来る。ごく最近としては一九世紀から二〇世紀にかけてが、人類における巨大な青年期としての構造を持つ時期であったと仮定できる(と僕は考える)。それは直接には、産業革命が西欧の社会構造を根本から変えてしまったことに起因する。そして、産業革命が起きるための基本的要因として一七世紀の科学革命があった。つまり、荒っぽく言えば、近代科学という特殊な思想が結果として産業革命という社会の変革をもたらし、さらに、それは人類という種のレベルの巨大な青年期、心理構造の巨大な変革期、シュトルム・ウント・ドランク、を生み出した。その、社会の変革期を生み出した科学革命が、より直接には産業革命が、小説というジャンルに、何の影響も与えなかったと考えるのは、むしろ不自然だろう。事実与えたのだ。科学が世界を変える、夢を叶える、という思想がジュール・ベルヌを産んだ。科学それ自体が世界を変える思想なのだと言う思想がウェルズを産んだ。そして、アリエスが『子供の誕生』で、子供という概念が産業革命期に誕生した(それまでは小さな大人、役に立たない半人前、とみなされていた)、と明らかにしたのと同じように、実は、青年期と言う現象も、産業革命以後に発生した近代的な現象、心理構造だ、と言うことが明らかにされてきたが、これは当然だ、ということを思い出しておく必要がある。
 つまり、こういうことだ。
 青年期という現象の発生と、SFという小説形態の発生は、パラレルであり、根はいずれも産業革命、さらに科学革命にある。SFが「科学」小説であるのは、だから当然のことなのだ。とすると、SFとは何か、に答えるすべは、青年期とは何か、と言う質問に答えることで本質的な部分を言い替えることが出来る。もっと言えば、SFは青年期の構造を持つと仮定して理解することが可能だ(と言うのが僕の仮説である)。
 SFという純文学石頭の連中が目のかたきにする犯罪的文学の動機やアリバイは、青年心理学の本の中に全部記載されているはずである(というのはもちろんウソだけどね)。
 で、先ほどのミステリとSFの対比の話に戻る。今ここでみたような、SF=青年期仮説を前提にみた時、先ほど述べたようなSFのあり方が、いかにもミステリに比べて「青春している」ことは明らかだと思う。SFとの対比において言えば多くのミステリは謎の出現により危機にさらされた常識的固定的日常的世界、要するに大人の規範が支配する安定的世界の秩序を、謎の完全な解決と日常性への回帰というベクトルでまとめている小説ということになる。それに比して、SFは、どの点からみても他の文学ジャンルとは違い、まさに青年期の夢と希望、憧れと挫折、退廃と堕落、発見と実験、混乱と狂気に満ちている。それは、直接青年期を、青年を描くと言う仕方で表現されるのではない。小説の成立ち方、物語の構造が、青年期の構造とパラレルなのである。一昔前の純文学石頭に嫌われたわけである。(ファンタジーとは何か、という問いに対しては、とりあえず“幼年期=老年期”の文学だと答えておきたい。)
 SFマインドとは、青年期の心のことだったのである。いかに科学的知識を駆使して書かれていても偽物か否か、ファンは明敏にかぎ分けた。淀んだ大人の心で、SFは書けない! からだ。
 ああ。そして、いま、だ。
 汚れちまった哀しみに、だ。
 僕にはもうSFは書けない。それどころか以前のように純粋に(?)SFを読むことさえ出来るかどうか心許ない。要するに、僕の青年期はまったくのところ完全に、過去のもの、なのだ。
 やれやれ。
 ま、そういうものだ。
 つまり、大人になれたかどうかはともかく(これもかなりややこしい問題だ)、僕の心は青年期を通り過ぎてしまった、と感じる。それをSFを読むことにおいて感じる。あるいは、読めないことにおいて感じるのだ。逆にいえば、今回、たまたま北村薫というなかなか優れた小説家のミステリ作品を十分楽しむことが出来た、ということにおいても感じることが出来た・・・・ということでもある。ああ・・・・。
  大林宣彦のタイトな傑作映画「彼のオートバイ、彼女の島」の中でこんなナレーションが入る。

 “夏は心の状態なのだ。”

 SFも同じだ。まったくのところ。
 心の夏まで自分でなくしてしまうことはない。
 とはいえ、僕は北村薫の次回作を楽しみに待っている。おじ酸化されていく自分を還元してやることは確かに必要だが、酸化作用自体はひとつの必然であり、自然なことであり、必要でさえあるのだろうから。
 良質な推理小説を読みながら、僕はそのことを教えてもらった。
 さて、少しばかりお喋りが過ぎました。実際はこれでもかなり説明不足でしょう。でも、君のことだからこんな舌足らずな文章からでも僕の言わんとするところを汲み取ってもらえるのじゃないか、といい気な期待を抱いています。いずれにせよ近いうちにまたお逢したいですね。くれぐれも体には気を付けて。
 お逢する日を楽しみに。
(『ひま人magazine Vol.7』一九九一年十一月二十二日)

 付記 ぼくのSF論としての『青年期文学論』は、実は今も未完のままです。このままでは永遠に“序論”のままで終わってしまいそうな感じである。この本の巻頭に入れた『時をかける思春期のドラマ』(時をかける少女論)で作品論をやり、この『夏の小説』で序論を書いたつもりでしたが、それから既に十五年も過ぎてしまった。
 この何故だか手紙形式の序論では、推理小説を、SFとの比較のためとは言え、かなり乱暴に論じている。流石にちょっと気が引ける。そのうちきちんと書き直さなければ、と思いつつ今回もその機会を見送ってしまった。
 うーむ。心の夏も遠ざかってしまって、まためぐってきてくれるものかどうか、心許ない今日この頃です。

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2007-07-01
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