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 いま失われようとするもの 
         『初恋の来た道』評  

 「初恋のきた道」はいい映画だった。
 単純なストーリーをじっくりと描く。対象の感情のゆれを信じて描く。やっているのはそれだけだ。余分なことはなにもない。
 実際ストーリーは驚くほど単純だ。単純なんてものではない。愕然とする。
 しかし、観ているうちに、どれも日本が失ったものばかりだと気づく。日本が近代化・高度成長するうちになくしてきたものを、素材としてはそれだけを集めて作った映画だ、と言いたいくらいに。
 
 一目惚れ。恥じらい。率直。純真。信じて疑わない心。真摯。健気。真心。手作り。貧乏。修繕。風習。信仰。自然。…… およそ全部日本が捨ててきたものだ。すべてが相対的になった日本に比べ、そこにはある種“絶対感情”がある、といえるかも知れない。
 では、中国にはまだそれが言葉通りのナイーブな形であるのか。
 いや、この映画が教えているのは、今まさに中国からもそれらが失われようとしている、という声だ。
 まだ忘れ去られたわけではない。しかし、既に気がつくとそれらの大部分は失われている。そういう声だ。
 その声は直接には語られない。語られるのは、それが未だ失われる前の(主人公の父と母が若かったの時代の)美しさと尊厳だ。それらは既に作者の周囲にはない。しかし、まだ記憶の中にありありと残っている。大きな入れ替わりの最中だからこそ形にできた映画なのかも知れない。今の日本ではできない。
 主人公の少女と村にやってきた青年。村で「初めての」自由恋愛。つまり、描いているのは旧来の価値観と新しい価値観の接点で起こるドラマ。
 旧来の価値観を美しく描いているには違いないが、「自由恋愛」という新しい光で初めてそれは強烈に浮かび上がってくるのでもある。それはきちんと見ておく必要がある。
 日本は、既に入れ替わってしまった。少なくとも表層の価値観は完全に近代化・高度資本主義のそれに覆い尽くされてしまった。それは恐らくそうなるしかないような過程の必然的な帰着なのだろう。
 しかし、失ったものは大きかった。その失ったものをもう一度、高度資本主義の社会に何らかの形で呼び戻すこと。呼び戻して組み込むこと。日本人の課題だろう。
 そのような試みはたぶん、あまり目に付かないところで、しかし多くの人々により試み始められているに違いない。というのが、ぼくの直感だ。
 それは形になりにくい。ネガティブなものにのみ注目が行く。しかし、もう一度別の価値観を改めて呼び込む努力は、きっとこの映画と同じように日本の「現代」を良くも悪くも新しい光で浮かび上がらせるに違いない。
     (『review japan』二〇〇一年八月十四日)

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2007-07-01
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