2005年11月に発行したエッセイ集『dozeu.net雑想ブック』のコンテンツを
全文お読み頂けます。

 


  ぼくは、ここにいるよ。
    OKAMURA TAKAKO CONCERT TOUR '03
          TEAR DROPS(渋谷公会堂)評


 コンサートのオープニングで演奏されたのは『未知標』だったでしょうか。このオープニングで岡村さんが、ある種原点に戻ることを意識されているのではないか、と感じました。
 さらに、初めに二曲くらい歌った後の第一声で、「いろいろとお騒がせしました」と今回の辛い出来事(離婚)に触れた後の曲が『秋の日の夕暮れ』だったので、内心、うわっ、と思ったりした。
 この、うわっ、の内実は一言では言えません。とても好きな曲なので、久しぶりに聴ける、という喜びも当然ありましたが、「いろいろと……」発言の後だったので、大丈夫かな、と心配になったからです。
 昔、岡村さんの『電車』『秋の日の夕暮れ』『心の草原』について書いた文章「“自由と永遠”にとどく日に」で、ぼくは『秋の日の夕暮れ』について、こう書きました。
 『詩の中では、「いつか夢がさめても」「心配せずに去ってネ」と歌われ、“あなた”は これから失われるかのようだが、曲全体のトーンは明らかにすでに失われた恋人を思う歌になっている。例えば、口先の言い訳をからだ全体の身振りが裏切ってしまう、というような経験はないだろうか。あるいは、どうしても認め難いことを何とか認めようとする葛藤が、全体のトーンを支えきれず、“切ない嘘”として顔をのぞかせる、とでも言うしかない心の揺れ。それが詩になっていると感じられる。
 人が人を愛する時、また、その愛が壊れていく時、人は自分を守ろうとして嘘をつく。 また、相手を守ろうとして嘘をつく。嘘が自分を傷つけ、相手をも傷つけると分かっていても止めることは出来ない。そのとき、失われずにすむものはほとんどない。
 「あなたと出会って(愛して) 本当に良かった」
 この歌で、すべてが失われてしまったとしても、なんとかして信じていたいひとこととして、この一行が歌われている、と感じられる。たとえ、いつか夢がさめようが(続こうが、変わらずに)、真実であるもの。ここで願われているのはこの一点であるように思われる。』
 えー、我ながらエラソーですが、言っていることは間違っておりません! と思います。この曲はきっと、敢えて歌ったんだろうな。……
 コンサートも佳境に入り、初挑戦のアコースティックコーナー。なかなか良かったです。特に、アフリカの打楽器を交えての『はぐれそうな天使』は意外性もあって、とても良かった。拍手でリズムを取りたいようなアレンジで、本当に手拍子を入れたかったけれど、会場が静かで、ちょっとためらわれた。でも、中程、曲が間奏に入った時に、短い拍手をしたら、それに続いてくれる人々がいて、拍手の波になった。
 ちょっと嬉しかった。
 コンサートも終盤に近づくにつれて、岡村孝子は観客の一人ひとりに目を合わせて、視線で捕まえようと懸命に(まるですべての聴衆の視線を捉え返そうとするみたいに)微笑みかけ、手を振った。こういうことに、こんなに一生懸命な歌手って、やっぱりあまりいない。
 ぼくの席のすぐ後ろにも「だがごさーん!!」と野太い声で絶唱する方がいて、耳元ですごい拍手もするし、正直勘弁してほしい、と思わないでもなかったけれど、やっぱり思いは同じなんだよな、と途中で気がつきました。懸命に手を振る孝子さんを見ていると、知らせたくなるんですよね、ぼくはここにいるよ、と。
(『review japan』二〇〇三年十二月二日)

----------------------------------------------------
 最後までお読み頂き、本当にありがとうございました。
『dozeu.net雑想ブック』フォーラムに感想等を書き込む
            続いて、「自由と永遠を追いかけて」を読む

2007-07-01
Copyright dozeu.net
Allrights reserved.

戻る