2005年11月に発行したエッセイ集『dozeu.net雑想ブック』のコンテンツを
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  三

 批評家の加藤典洋さんが“骨折”と呼び、庄司薫さんご自身は“栄養失調”と呼んだ種類の体験を、庄司薫さんは二度している、と言ってもいいのではないか、と述べました。その二度目の体験---栄養失調---の時期が一九七二年二月の連合赤軍事件の時であり、作家・庄司薫は、実質的にはそれ以降、四部作の最終話『青髭』のためだけに作家として公にとどまったが、実質的には既に二度目の総退却をしていた、というのが僕の考えでした。

 その十年前、一度目の骨折とその後の“総退却”に関しての記録は、実は当の庄司薫さん自身によって残されています。言うまでもなく、長編エッセイ『狼なんか怖くない』がそれです。これはまた見事なエッセイで、その内容をかいつまんで‥‥などということがイヤになってしまうような作品なのですが(つまり、自己表現ないし自己省察について、人一倍自覚的な人間が、近過去の自分について語る、と言う場合の自己言及の仕方ないし作法について真に示唆的である、と言う意味においても)、もう極端にかいつまんで一言で述べれば(詳しくはちゃんと庄司氏の本をお読み下さい)、

 人が成長する過程で、「純粋」「誠実」といった理想をめざす時、その目標に到達するためには現実的な「力」を獲得する必要があり、必ず他者との比較競争関係に入らざるを得ないが、その場合少なくとも結果として必ず勝者と敗者が生まれ、その勝敗の結果として勝者はその最も人間らしい何かを「喪失」し、そもそも理想をめざす要件そのものを「喪失」してしまう。それにもかかわらず、人が人らしく生きていく要件は何らかの理想をめざすことにある。

という恐るべき自己撞着。この自己撞着こそが“狼”でした。
 庄司氏の一度目の“骨折”の原因となった恐るべき敵が、この狼であり、その狼を“怖くない”と言いうるために必要とした歳月が、赤頭巾で復活するまでの十年間であったと考えることもできるでしょう。
 その十年間に庄司さんが獲得した方法のひとつは、短期決戦による玉砕を避け、長期戦ないし持久戦に勝ち抜く方法。あるいは、短期的な優勝劣敗関係を、長期的に補償して何倍にも返す方法(“若々しさのまっただ中で犬死にしないための方法序説”)でした。
 その初めての試みである『赤頭巾ちゃん気をつけて』で庄司さんが述べたことは、結局言葉にするとひどく単純なこと、その困難な持久戦を戦い抜くためには、他者への愛、それも、力に支えられた他者への愛、こそが必要だ、と言うものでした。

 その、「力に支えられた他者への愛」を庄司さんは、薫というひとりの“やさしい若者”の言葉と行動で表現しました。実は、赤頭巾で表現されたこの“やさしさ”は、従来の言葉の意味を革新しており、それ以降一九七〇年代を“やさしさ”という価値で語れるほどに当時の人々に受け入れられていくことになります(従来は、やさしさ、には優男などの例でわかるようなどこか弱々しいイメージが、はっきり言ってマイナスのイメージが付随していました)。しかし、この「革新」の底の意味は実は明確には受け止められなかったのではないかと思います。
 庄司さんが表現した“やさしい若者”、“やさしさ”は圧倒的に受け入れられますが、その後に出てきた多くの表現では、その肝心な部分、「力に支えられた」部分が欠落していたのです。結局、単に優しいだけの若者、に収束していくことが圧倒的に多かったのです。これを、「やさしさ」と「力」を併せ持つことの困難、まさしくある種の理想を抱くときの困難、がここにも顔を見せている、と言ってみてもよいでしょう。おそらく、そのことに誰よりも敏感であったのは当の庄司さん自身であったに違いありません。
 庄司さんの考えの基底にあった、優勝劣敗の勝者がいかに自分の夢を、その力を、失わずに他者に還元していくことが可能か、というモチーフは現実の日常的白兵戦の最中に消えていき、落ち着いた先は、弱者の自己肯定であった、などということがしばしば起きていた。いや、それどころではありません。その問題は、早くも一九七二年、劇的な形で、庄司さんの前に現れていた、と言ってもいいのではないでしょうか。「少なくとも主観的には『社会のために身を犠牲にして』バクになり、同時代を生きるぼくたちの悪夢をひたすら食べ続けていた」はずの若者たちが、「いわば魂の栄養失調とでもいうべき状態にいつの間にか追いつめられていき、気づいたときには、『社会のために』という他者肯定を目ざす最初の夢とは全く正反対の、他者否定、社会否定そして人間否定へとのめりこんでいた‥‥。」(「バクの飼主めざして」)
 それが、一九七二年の庄司さんの栄養失調、をもたらしたと考えることができるのです。庄司さんは、この時期に起きた一連の衝撃的な出来事を、ほとんど「我がこと」として受け止めていたのではないか、と僕は考えています。

  四

 「喪失」において、庄司さんが問題にした比較競争関係とそこから導き出される“狼”については先に触れましたが、学生作家・福田章二氏は、その恐るべき自己撞着のメカニズムを小説という形でえぐり出しはしましたが、問題の提示にとどまり、対応策は提出できず、いわば自分で提示した問題(小説)と差し違えるような形で小説を書くことから退却し、社会的な意味では沈黙期間に入りました。
 一九六九年に、『赤頭巾』で公の場に復帰しますが、その時に始めて庄司薫というペンネーム(匿名性の自由=ゲリラの方法)を採用します。四部作を書いたらさっさとまた退却するはずだった、ということは何度か書きましたが、それもこのゲリラの方法に基づくものでした。ただし、ご存じのとおり、『赤頭巾』が芥川賞を受け、ベストセラーとなることによって、初めは本当に十八歳の少年ではないか、とさえ思われた庄司薫くん、が福田章二氏のペンネームであったことが明らかになり、戦法の変更を余儀なくされてしまうことにもなったのでした。
 ここで今一度、そもそも総退却していた福田章二氏が、庄司薫として再び登場した一番の理由を確認しておきたいと思います。
 庄司さんは『狼なんかこわくない』の中で次のように語っています。
 「六七年に始まる大学紛争が激化していくにつれ、ぼくは、ぼくの中の、なによりも無力な自分自身に対する苛立ちが、次第次第に耐えがたいまでにたかまるのを感じていたのだった。何故なら、たとえば東大紛争をとっても、そこでゲバられているのがぼくの先生や友人なら、ゲバっているのも友達だという状況がそこにはあった。」
 「ぼくが、その準備不足を感じながら、でもとにかく再び小説を書き出した大きな動機は、かくして、ほかならぬこのような時代的状況を砂かぶりで見ながら、しかし結局は十年間何もできずに手をつかねてきたぼく自身の苛立ちに基づく一種の短絡反応にあったと言えるかもしれないのだ。」
 また、「七〇年代に何が起こるか-長期戦の方法-」(『バクの飼主めざして』収録。初出、一九六九年十二月)では、 「『赤頭巾ちゃん気をつけて』で十年ぶりに筆をとったぼくの前にあったのは、ぼくの友人たち先輩たち、そしてなによりもこのぼく自身のなかにあるこのような魂の荒廃への予感だった」 と記しています。
 そしてここで「このような魂の荒廃」と名指されているものとは、「たとえば、ぼくたちを敵味方に峻別して闘わせることになるさまざまな政治的思想体系(政治的信条といってもイデオロギーといってもかまわない)は、そもそも他ならぬこのぼくたち人間のためにあるのは言うまでもないことだが、混乱と動揺の中では、常にその排他的側面のみが強調されて、いわば境界における党派的戦闘ばかりが激化するような形になってしまう。そしてその結果、目先の戦闘に必要でかつ便利な他者否定の技術のみがとぎすまされ、その思想が本来拠ってたっているはずの『みんなを幸福にするにはどうしたらよいか』といった最も素朴でしかも重要な目的そのものが見失われていく。いや、それどころか、そのような戦闘が繰返されていくうちに、他者肯定はすなわち『敵を愛する』という現実的には馬鹿ばかしい甘さだと考えられるようになり、そこに恐るべき魂の荒廃が進行していく‥‥。」(同「七〇年代に何が起こるか」)と言われているものに他なりません。

 つまり、大学紛争のひとつの帰結として、一九七二年に起きた連合赤軍事件は、庄司さんが繰り返し語っていた危機的な事態が、あまりにも苛烈な「現実」として目の前に突き出された、と言ってよい出来事であったに違いありません。
 一つの想像に過ぎませんが、あるいは、『白鳥』執筆後、庄司さんは既に『青髭』を書き始めていたかもしれません(一九七一年二月に『白鳥』の単行本が発行されていますから時間的余裕はあったのではないでしょうか)。四部作については、できるだけ早く書いてしまいたい、という気持もあったに違いありませんから。しかし、それはなかなか形にならなかった。それが何故なのかはわかりません。単純な理由があったのかもしれませんが、いずれにせよ何かが庄司さんを止めていた。
 その中で、大学紛争以来の潮流が、一九七二年二月に連合赤軍事件という形でひとつの結末を迎えた。これは庄司さんにとって、やはり大変な衝撃だったはずです。
 やがて、一九七五年になってやっと『青髭』の連載が始まり、二年間続いて完結後、さらに大幅なリライトが行われ(主に、他の三作とのバランスをとるために、長くなった青髭を短くした)、一九七七年七月に刊行されます。
 僕は一九七三年に『赤』『黒』『白』が同時に文庫化されて以来の読者で、リアルタイムの読者としては、実は『青』が初めてでした。それだけに大変な期待をして待ち、刊行時にはサイン会に行って、庄司さん本人より『青髭』にサインを頂きました。場所は確か、『青髭』の舞台ともなった新宿・紀伊国屋書店だったはずです。
 そして読んだ『青髭』‥‥とても面白かった。ただ、胸が痛むような哀しさがありました。そんな読後感は、庄司さんの作品に限っては、初めてでした。

 だから、実は、『青髭』には庄司さんが何故二度目の沈黙期間に入ったか、ということの理由が、透かし絵のようにはっきりと書き込まれている、と考えることもできます。
 言わば、「喪失」が書き直されて精緻になり、庄司さんに総退却を選ばせる力を持って迫ったように、『青髭』もリライトされ、もう一回客体化される、という不思議な巡り合わせもあずかって、『赤頭巾』以来の自分の方法を細部まで点検することにも繋がり、結果、ある種の力を持って、庄司さん自身に二度目の総退却を最終的に迫った、と考えることができるのです。
 『青髭』は宿命的に他の三作とは異なる肌合いを持つ小説となりました。

   五

 『赤頭巾』以来、好むと好まざるとにかかわらず、庄司さんは時代の表舞台に立つことになりました。その再登場にあたって、庄司さんが採用した主な武器(!)は以下のようなものだったと思います。

・ゲリラの方法(=匿名性の自由)
・絶えざる自己否定(=こころの柔軟体操)
・力に支えられた“やさしさ”
・持続の問題(迂回的方法)
・客体化と抑制力

 これらを舞台装置として組み込んだ連作が『赤』『黒』『白』『青』と続いた薫くんものと呼ばれたシリーズでした。他者の「魂への気づかい」として『赤』から始まったこのシリーズは、「青春の終焉」(本来は「旅立ち」)を描いた『青』で幕を閉じました。あるいは、連合赤軍事件の衝撃がなかったら、違った『青』が生まれていたのではないか、という想像をしたくなります。
 しかしおそらく、それが問題なのではないでしょう。
 庄司さんがその闘いの最中に用いた武器の、その有効性と限界について、誰よりも自覚的に、真摯に考え続けたのは、おそらく庄司さん自身だったに違いありません。また、間違いなく何度となくあったはずの、編集者からの執筆依頼や読者からのラブコールにもかかわらず、作家・庄司薫は三度舞台に戻っては来ませんでした。今に至る、庄司さんの沈黙をこそ、重く受け止めねばならないと思います。

 それにしても、あの時、その「時代の児の運命」として、手持ちの武器を総動員して果敢に闘った一人の作家がいた、という事実は動かない。僕は、そう思っています。          (二〇〇五年十一月八日)


付記 実はこの小論の続篇として、『やさしさと親切の精神史』と名付けた小論を考えています。今回時間的余裕がなく見送ってしまいましたが、庄司薫さんの“方法としてのやさしさ”が一九七二年の衝撃で二度目の総退却を余儀なくされた後、僕の考えでは、それを一端ぎりぎりまで後退して受け止めて出てきたのが、村上春樹さんの“親切”であった(村上さんの方法をここではそう呼んでいる)、ということになります。

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2007-07-01
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